武将たちと富士宮ーNHK大河ドラマの時代考証からー

文化講演会 演題 「武将たちと富士宮」―NHK大河ドラマ時代考証からー

講師 小和田哲男(おわだてつお)静岡大学名誉教授・文学博士

 

触りから

NHK大河ドラマ時代考証の仕事は竹中直人さんが出演した秀吉(原作・堺屋太一)が最初で、2020年の麒麟がくるで7作目でした。

原作があるのとないのとでも時代考証の仕事のやりやすさというのが違っていて、

原作があって原作者が生きてる・原作があって原作者が亡くなってる・原作なし

というパターンがあるが、一番やりやすいのは原作なしの場合です。

2006年の「功名が辻」という山内一豊と千代の物語のときには苦労しました。

山内一豊という名前も2006年からは「やまうちかずとよ」と読みますね。やまのうちじゃなくなりましたね。

この話のときに馬を買う有名な場面が出てくるのですが、NHKと衝突しましたね。

この話は原作者が司馬遼太郎さんで、このときはもうお亡くなりになっていたのですね。

原作では安土の馬市「天正4年(1576年)」ということになっているが、この頃には一豊出世してまして年収が2000万超えてるんですね。

一頭約十両(一両が十万円なので百万円)もする馬を買ったんですが、年収2000万あって100万の馬が買えないわけないのです。

この年よりも4・5年前だったら400万くらいの年収だったので、馬を買ったのは多分、岐阜か長浜なんですね。

そしてこのときにまたセリフで揉めたんですが、原作者が歴史に詳しくなくて、NHKに頼まれて歴史ものの脚本を初めて書いた場合とかだと登場人物が現代的な言葉遣いになってしまっているので困るんです。

一豊のセリフで、「わしは絶対家族を守る」というセリフがあったのですが、当時、絶対という言葉と家族という言葉がなかったので、当時風に言うと、

「わしはかならずや妻や子供を守る」となるんですね。こんな具合に時代考証というのは衝突することもあるんですよ。

 

また「天地人」の直江兼続のときには、越後は米どころじゃ、酒どころじゃ、じゃんじゃん飲め」というセリフがあったのですが、新潟でお酒が有名になったのは戦後のことなんですね。〆張鶴(しめはりつる)とか有名なお酒が私は好きですが。

 

他には「これでそなたも殿の眼鏡にかのうたな」とうセリフがあったのですが、当時、眼鏡なんてかけてる人は3・4人しかいなかった。おかしいですよね(笑)

「鳩が豆鉄砲食らったような…」という表現も、この頃鉄砲なんか持ってる人はほとんどいなかった。これもおかしいですよね(笑)

とかく演出家というのはオーバーにしたがるもので、時代考証の仕事でぶつかることが多いです。

2011年の「江~姫たちの戦国~」のときのことです。信長という人はどこでも平気で火をつけていく武将だったのですが、小谷城の攻防のときには信長が火をつけたという記述も焼けた痕跡もどこにもないんです。小谷城は落城時に焼けてないんですよ。

なのに演出家が「落城するとき燃えてないと視聴者は落城しているとわかってくれないから」と言って、ちょっとだけでいいから火をつけさせてくださいと頼んでくるんですよ。ダメだと言っていたんですがあまりにしつこく言ってくるので、仕方がないから「ちょっとだけですよ」と許可したんですけれど。かなり派手に燃えていましたね(笑)

 

本題

今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ですね。私は時代考証はやってないんですが、来年の「どうする家康」は担当しています。

鎌倉殿の13人は伊豆の国市韮山町)が舞台になっていますね。静岡というのは大河ドラマの聖地なんですよ。静岡と愛知に関係のある武将が多いからです。

いろんなところから大河ドラマへの陳情が来ているんですよ。例えば長野県上田市。署名活動を行っている。熊本県でも「清正公を主人公に」と署名活動をしている。

今まで鎌倉幕府を開いたと言えば源頼朝でしたが、頼朝のみで幕府を開いたわけではないですよね。

頼朝というのは、14歳で伊豆に流されたんですよ。流刑地と言えば、常陸・阿波・隠岐というところがありました。

以仁王の令旨を受け取って頼朝は挙兵したわけです。

山木兼高(やまきかねたか)の屋敷を攻め落とすんですが、三島の人は三島大社にお参りに行くだろうから、お祭りの最中に襲おうということで、三島大社の祭りの時を狙って襲撃に行くんですよ。

伊東祐親(いとうすけちか)は平家方についたのですが、真鶴岬から房総半島を目指すんです。その直後に富士川の戦いがあるんです。朝霧高原付近ですね。

甲斐源氏というと武田信義という人がいるんですが、この人の何代か後に信玄がいます。

一条忠弘という人が甲斐源氏を束ねて橘遠茂と戦ったんですよ。

その頃の富士川は今とは違う流れでして田子の浦の入海で鳥たちがびっくりして一斉に飛び立つんですよ。ちなみに昔はキセルをやる人のことを「薩摩の守」と呼んだものです。

富士川の戦いというのは、戦いなき戦いと言われています。

 

頼朝が鎌倉入りしてから、富士の巻き狩りをやるわけです。巻き狩りと言えば曽我の兄弟の仇討ちが有名ですね。昔は講談でも仇討ちが大人気でしたが、今はないですね。

巻き狩りというのは軍事訓練で、鹿や猪を狩るんですね。

鎌倉幕府と言えば中学校の教科書の執筆編集も私やるんですが、皆さん、いい国作ろう鎌倉幕府と覚えたのではないですか。今は違うんですよ、いい箱作ろう鎌倉幕府なんですよ。1185年説が今は有力なんです。

頼朝と言えば、兄弟には義経源範頼がいるわけですが、幕府というのは将軍の幕営(いるところ)なんですね。

今年の大河ドラマがどの説でいくのか皆さん楽しみにしてくださいね。

 

富士の巻き狩りは、個人の訓練に対しての集団での訓練を指します。

曽我十郎五郎兄弟。この兄弟はなぜか兄が十郎で弟が五郎ですね。

曽我兄弟が討ち取ったのは親の仇で工藤祐経(くどうすけつね)ですね。曽我兄弟の親というのは伊東祐親(いとうすけちか)の息子の河津祐康(かわづすけやす)です。

狩宿の下馬桜は上井出のすぐ横ですね。白糸の滝のすぐ近く。

この時、頼朝が襲われて亡くなったという誤報が鎌倉の政子の元に届きます。

政子の側にいた頼朝の弟の範頼が「兄が討たれても私がいるから大丈夫だと言った」という。それが原因で政子に疎んじられた。

また、富士宮市下条には地頭南条氏の館がありました。土塀が残っている。土塁と堀に囲まれた館。妙蓮寺に残っている。武士たちの館が多かった。

 

「どうする家康」

家康は生まれは岡崎。6~8歳の時は尾張で信秀の人質。9歳からは今川の人質。

1560年の桶狭間の戦い、このときはたまたま家康は大高城の留守を守ることを命じられていたので助かったのですが、留守を守っていなかったら、歴史は変わっていたかもしれないですね。

桶狭間の戦いでは、今川軍は昼食休憩のときに狙われています。

その後、家康は三河で自立。今川氏真(義元の息子)をけしかけたがダメだった。

水野信元(みずののぶもと)が寝返るのですが、この人はお題の方の兄で信長の家来。

家康は3歳で母と離れ離れになった。家康が武田軍と手を結んで富士川を南下して内房に来るのですが、この辺りは大河に出てくるかもしれませんね。

 

武田と手を結ぶが対立する。三方ヶ原の戦いで家康は信玄に負ける。この時、徳川方の記述には大井川・遠江は家康、駿河は信玄となっているが、武田側の記述では大井川という記述はない。

天正三年の長篠の戦については、小和田先生は「長篠・設楽原の戦い」と言っている。

信長との同盟は天正十年に結ぶ。

信長による甲斐の武田攻めで富士宮も出てくる。信玄は天正元年に亡くなる。勝頼という人は本来、家督を継げるような人ではなかった。武田義信(長男・義元の娘)が亡くなり、次男はもともと盲目で、三男も亡くなっている。そういうわけで、諏訪家に出ていた勝頼に家督相続の話がめぐってきた。

 

甲相駿(こうそうすん)三国同盟富士市の善徳寺で信玄、氏康、義元が会ったと言われているが実際には3人はそこで会ってはいない。

信玄は、駿河の国が喉から手が出るほど欲しい。海を使った交易や、川を使った舟運がしたかった。甲斐の金山(下部)は金が枯渇し始めていたが、駿河にはまだたくさん金山があるので。

信玄が亡くなったのは信長や家康にとってはチャンス。天正十年三月。天目山の戦い。実際には天目山では戦いはなくて、天目山麓の田野というところで戦いがあった。

小和田先生は、「天目山麓・田野の戦い」と呼んでいる。

家康が甲斐に攻め込む。麒麟が来るでは、コロナの関係で武田攻めが省略されてしまい、小さい扱いになってしまったが、小和田先生はもっと取り上げたかった。

 

信長の長男・信忠が恵林寺を攻める。六角氏残党が匿われていた。快川紹喜(かいせんじょうき)という国司の人が「寺は治外法権だ。」と言って六角氏を出さなかった。

寺に150人いたというお坊さんたちを火をかけて焼いてしまった。

この時に快川紹喜という人が言った言葉が「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉。

快川紹喜は美濃の出身。このことについて光秀は不敬にあたると思っていた。

戦いが終わった後の首実検というのは手を合わせて拝むのが流儀であるが、細川忠興の記述によると、信長は勝頼の首を蹴飛ばしたとある。光秀は信長様が狂われたと思ったかもしれない。

信長の凱旋旅行に近衛前久(このえさきひさ)という公家が一緒についてきていた。

近衛は謙信とも仲が良く、行軍に参加したりしていた。

その太政大臣にむかって信長は「わぼれなんど、木曽路をのぼらせん」(おのれなど木曽路を登らせない)と言い放った。信長は帰り際に富士山を見て帰りたいとわがままを言った。

信長については「信長公記(しんちょうこうき)」が一番詳しく書いてあるが、家臣の太田牛一という人が書いているので忖度があるので注意。信長が負けた戦いについては記述がなかったりする。

同じことで、吾妻鏡も忖度があるので注意。

 

史料は騙されやすいので注意が必要。吾妻鏡は北条家に都合の悪いことは一切書いていない。

天正十年の四月十二日。信長は狂ったように富士の原野を走り回った。これは太田牛一の感想。

信長は酒が強くない。

その際、信長は、大宮の浅間大社、上井出、白糸の滝などを見て回ったらしい。

家康が茶屋を立てていて、家康の接待を受けながら信長が通った。

直後に本能寺の変が起きる。

本能寺の変の後、信長の首は見つからなかった。

10月に秀吉が葬儀をしたが、首がないので木造の首をふたつ作って、ひとつは燃やし、もうひとつは本能寺にある。

実際には西山本門寺富士宮)に首が運ばれたというが、これについては、結構信憑性が高いかなと小和田先生は思っている。

 

家康にとっては富士山というと村山修験(むらやましゅげん)と関りがある。今川義元村山修験とつながりがあった。

戦国時代は、忍者が活躍した時代。忍び、乱波(らっぱ)、透波(すっぱ)など。

村山の山伏は修験者(しゅげんじゃ)。家康は子供のころから忍者たちの行動を見ていた。

家康は富士山の修験者たちを高く買っていたのではないか。

 

家康は大坂方に対する最後通告で自分が隠居し、将軍を息子に譲った。静岡市に隠居城である駿府城を作った。

家康が駿府城を静岡に作ったのには五つの理由があると言われている。

ひとつには、幼年の時にいたから。その頃は比較的、恵まれた人質時代であった。

ひとつには、冬あたたかくしてちょうどいい。

安倍川から見ると、富士山と駿府城が並ぶように建てられている。

 

 

ほぼほぼ、こんな感じの内容でした。

書きとった人(わたし)の知識が足りないせいで意味がわかりにくい箇所がありましてすみません。

お話を聞きながら高速で走り書きのメモを取りました。今になって意味がよくわからない、思い出せないところもあります。

 

会場では、ときおり笑いが起きていました。小谷城のくだりで「ちょっとだけ火をつけさせてください」とか、その辺りは笑いが起きていました。(笑)としてあるところはそんな感じです。

 

個人的には、曽我兄弟についてのお話をもう少し聞きたかったかなと思うのですが、非常におもしろくて有意義な時間になったと思います。

小和田先生の言い回しを思い出しながら文章を構成しています。

史実と違う箇所がありましたら、書きとった人(わたし)のミスです。ごめんなさい。

小和田先生、ありがとうございました。