悲喜こもごも

今週のお題「夏を振り返る」

 

今年はなんといっても父の死。

8月22日に死亡が確認されました。それまでは自宅療養だったので、私がお世話係をしていました。

 

お世話といってもある程度は自立していたので私がやることは家事、ごはん係、薬係、記録係といったところ。

記録は介護認定の審査をきっかけにつけだしたものでしたが、訪問看護の人や医師のためにもなったようです。

あくまでも伝えるときに忘れないようにするためだったのですが、まさか、後になってその記録が評価されることになろうとは。

 

7月3日に菩提寺が決定し、7月9日に父が2度目の救急搬送。

11日にほぼ強制的に退院してきて、本格的に自宅療養の開始。

 

7月の上旬はとにかく混乱していました。

絵は思うように作れないし、気持ちは乱れるし、人の境遇は羨ましくなるし、自分の時間があるようでないような不思議な感じでした。

 

今年の夏は行楽は一切なかったな。

無理にあげるとすれば、葬儀の後の寺院へのお支払いの後に行った牧場の思い出くらいかな。ご飯食べてアイス食べたくらいですが。それが、8月28日のことでした。

 

生きている間は何かと問題の多い風変わりな父ではありました。

しかし、亡くなってしまうとなんだかとても寂しいのです。もう悪態もつかないのだなと思うと、不思議に寂しい。

 

穏やかな死に顔を見ているとじわーっと涙が込み上げたり。通夜が始まるまでの数日間は沈んでいたと思います。

亡くなったあくる日の夜中にはいろいろ考えては泣き泣きしていたので目がはれてしまったり。

 

ほんとうに風変わりでいわゆる”へんぽらい”だった父。悪い意味でものすごい変人というような意味合いです。

普段は口下手で照れ屋でうまく表現できずに切れてしまうこともしばしば。

そんな父が亡くなってからは、なぜか火が消えたような寂しさ。

 

今でも、寝室で静かに寝ているような気がしてならないのです。

亡くなったのは確かなことなのですが、葬儀が終わってしまうと逆に夢のような気がしてしまう。

家族が、世帯主が亡くなるということは、とても大変なことなのだと実感しました。

手続きは煩雑でとにかく多いし、必要書類も何千円も出してそろえなければならないし。

 

でもそういったことよりもなんだか打ちのめされるのは、あるはずだったものがなくなったみたいな、いるはずの人がいないという空虚。

自分のつけていた記録を見た人が「お父様のことが大好きだったんですね」と言ってくれて。

大好きというよりも仕方なく思っていた父との関係なのですが、否定する気にもなれず、ただ、黙って頷いていました。

 

最後の日にはちょっと手がかかった父ですが、まるで自分の死期を予感したようなことを言いました。

「何があるかわからないから、ばあばを呼べ」というのです。

まさか、本当にその日に亡くなるとは思いませんでした。

 

母は仕事でしたからすぐに戻るわけにもいかず、父は深夜近くになって急変するのです。

昼間はぐったりしていましたが、夜になって回復し、自分でトイレに行って歯磨きをして入れ歯を外して。

一連の動作が終わって布団に戻るときに眩暈を訴え倒れこみました。そして、息を大きく2回吐き、その後は静かに眠っていると思っていた。

 

知らないうちに亡くなっていた。

 

人の死はあっけない。

今まで家族が亡くなったことはなかった。祖父や祖母はみんな亡くなっているのだけれど、一緒に住んではいなかったので喪失感に襲われることはなかったかもしれない。

 

まだ49日も来ていないから、きっと自宅にいるのだろう。

何気なく父の好きなものをお供えしたり、父の好きなテレビ番組を見たり。

生きていた時よりもやさしくなったような気がする。

 

悪態ついてでも生きていてほしかったな。

もうちょっと手こずらせたってよかったんじゃない?

 

終わらない父への言葉が浮かんできます。

夏はもう終わりだよね。夏と共に逝ってしまった父へ。

 

さようなら。