バターサブレ

バターサブレを作りました。昨日。

ちょっと焼きすぎて硬くなってしまいました。残念。でも味はいい。

 

うちのオーブンレンジ、いろいろな本のレシピと違い、馬力が足りなくて焼き足すことが多いのです。

今回はそれが裏目に出てしまいました。あう。

 

初めて作ったバターサブレは成功とは言えないものでしたが、作るのは楽しかった。

また、気が向いたらリベンジしようと思います。

 

日常はこんな感じです。お菓子はひさしぶりに作りました。何も手につかずに焦っていることが多いかな。

膝を傷め、手首も傷め、アクティブに何かやるにはハードルが高かったこともあります。

かなり良くなってきたのでこれから先はちょこちょこ動いていきたいと思います。

 

雨が降ったり止んだりのすっきりとしないお天気ですが、出来るだけ元気にいきたいと思います。

あっというま

あっというまに4月が終わる。

あっというまに年を取る。切ない。

年令に見合った内容にしたいと切に思う今日この頃。

 

オフラインではいろいろと模索中ですが、こちらに書けることはあまりないですね。

目がカピカピ、痒い時期も終わりに近づきましてホッとしています。

梅雨が来るまでの間、爽やかな青空と空気を楽しみたいと思います。

 

皆様がお元気でありますように。

 

 

伊予原新講演会

富士宮市の市制80周年記念事業、令和4年度、富士宮市立図書館講演会、伊予原新講演会に行ってきました。

広報ふじのみやにひっそりと載っていたのを見つけて応募しました。特にファンだったわけでもないのですが、小説家と言う存在が気になるので。そんな感じで応募しました。

講演会までに読めた本は「月まで三キロ」の表題作と星六花のみ。どちらも少しハッとする内容。そしてどこか温かい。

科学についてはあまりよくわからないけれど、人間ドラマがおもしろいので読めるかなと思います。

 

講演会の内容について。

聞きながらメモりましたが、何分にも科学的なことは聞いている方がよくわかっていないのでよくわからない内容になると思います。すみません。

ご本人は講演には慣れている様子でしたが、時間が足りないと何度もおっしゃってました。

伝えたいことがたくさんあるっていいことですよね。

 

まず、紹介から入りました。

経歴は富士宮市立図書館の紹介を引用します。

 

1972年大阪府生まれ。

東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。専攻は「地球惑星科学」。

2010年「お台場アイランドベイビー」で横溝正史ミステリ大賞受賞。

ほか、「月まで三キロ」で新田次郎文学賞、静岡書店大賞受賞。

「八月の銀の雪」が、直木賞候補に。

最新作は「オオルリ流星群」

 

伊予原さんと富士宮について。

伊予原さんの奥様のご親戚のお家が富士宮市内にあると言うことでお正月によく富士宮にいらっしゃるそうです。

奥様が大変お世話になっていて、市民文化会館の近くでもあるとのこと。

 

図書館の行事ということで、自らの図書遍歴を紹介してくださいました。

小説や科学の本も紹介されていましたが、小学校時代は何よりも漫画、藤子不二雄さんに夢中であったそうです。ご自身でも漫画を描いていて小学校の頃は本気で漫画家を目指していたそうです。

中学生になって江戸川乱歩とかも読むようになったと。この辺りはメモが追いつかず書き切れなくて、そしてうろ覚えです。すみません。

 

進路を決めた本ということで紹介されていたのが二冊。

大学の図書館の司書さんが、いっかいの高校生に本気で探して教えてくれた本が、田畑忠司さんの「流氷」という本だそうです。

おもしろかったのだけれど、その後に読んだ上田誠也さんの「新しい地球観」という本が決めてだったそうです。

 

地磁気の研究をしているということ。地球は大きな磁石である。今は地球の磁気は上にS極、下にN極になっている。

大学は神戸大学で、神戸大学では毎年1人だけ南極に連れて行ってもらえる。自分も連れて行ってもらえた。

 

チバニアン

2020年にチバニアンに名称が決定した。地層のこと。

地磁気逆転層。市原市の養老川の地層がとてもわかりやすく出ている。

258〜77万年前までは今と逆の地磁気だった。地磁気は逆転する。そろそろ変わってもおかしくない頃だそうです。

 

磁鉄鉱=方位磁石。

地磁気は生命を守る盾の役割をしている。

放射線が地球の中に入らなくする役目を果たしているから。

 

大学を出て、大学院を出て、助教の立場で研究をしていたが、やりたいことがうまく出来ずにモチベーションが下がっていた頃。

研究の内容ではなく、小説のトリックを思いついた。

小説なんて書くのは初めてだったが、頑張って書いた。そして応募したが、初めての作品が賞を取れるとは全く思っていなかったので本人は忘れていた。知らせが来てびっくりすることになる。

その、応募した賞が江戸川乱歩賞。応募したが落選。しかし、最終審査には残ったようで、続けて書くといいよと講談社の編集さんに勧められたとのこと。

 

次の作品がお台場アイランドベイビーで、2010年に横溝正史ミステリ大賞でデビューした。

同時にまた他の作品を江戸川乱歩賞に出したが、これも最終まで残って結果落選したとのこと。

落選はしたが、綾辻行人さん(敬愛している)が強力に推してくれたらしい。感激したとのこと。

その綾辻さんから、「あきらめずに書いていれば、いつかきっと日の目を見るよ」と言われたという。その時は真の意味はわかっていなかったが、何冊か本を出してもあまり注目されることがなかったことで、言葉の意味を思い知ることになったという。

 

月まで三キロ、八月の銀の雪は、地球科学、生物学+人間ドラマの作品。

知り合いの編集さんに「伊予原さんはミステリのトリックを書くことに疲れているような気がします(違う表現だったかもしれません)」と言われたことで、ハッとしたと。

その人から、真鶴町立の遠藤貝類博物館のコレクションを見て、何気なく入ったのに感動したという話を聞いて興味が沸いた。

科学博物館の川下コレクションにも影響された。アンモナイトのコレクション。

アンモナイトの探し方」を書いたと。

 

月まで三キロ。

静岡県浜松市天竜区に月という地名がある。テレビで知って興味を持った。調べてみたら本当にあって驚いた。今はGoogleマップの中にも「月まで三キロ」の青看板があると載っているそうです。

月という地名になった由来の一つに、南北朝時代楠木正成の配下の落武者が何人かいた。正成の心が月のように綺麗だということで月になったという説があると言っていた。

 

月までの距離は実際には38万キロある。40億年前以前には現在の半分以下の距離で、見かけの大きさは現在の6倍以上だったそうです。

月は1年に3・8センチずつ遠ざかっている。

理由は書き取れませんでした。すみません。

 

八月の銀の雪。

インゲ・レーマンの論文。女性の研究者。ちょっと変わった人だった。地球の内核の発見をした人。

地殻=岩石

マントル=岩石

外核=液体の鉄

内核=固体の鉄

 

鉄は高温になると溶けるが、圧力が高いと固まるのだそうで、地球の内核は圧力が高いので固まった鉄なのだそう。

P派=縦波(液体の中を通る)

S派=横波(固体を通る)

地球の46億年の歴史の中で、内核が出来たのはおよそ10億年前。

地球の冷却と共に現在も内核は成長している。

 

時間がないということで、少し講演内容をご本人がはしょりました。

 

最新作のオオルリ流星群。2022年。

エッジワース・カイパーベルトというものがある。

冥王星は昔は惑星として捉えられていたが、現在は月よりも小さいということで惑星とは見做されていない。

同じくらいの大きさの星が周りにもたくさんある。冥王星は惑星ではなく、準惑星という扱いになった。

 

短周期彗星の軌道。

彗星は、エッジワース・カイパーベルトという辺りから、流れてきたもの。

その彗星のチリが流星群であると。

京都大学の有松亘(こう)という研究者がいる。

この人が、立派で高価な望遠鏡ではなく、天文マニアなどが使う望遠鏡にカメラを取り付けて、掩蔽現象(えんぺい現象)というものを利用して、発見したらしい。

何をどう発見したのかは、門外漢すぎてよくわかりません。すみません。

 

渡部潤一氏との対談に、ゲストで有松亘さんが来た。2022年10月のこと。

有松さんの研究を題材にして伊予原さんが小説を書いたことを、知り合いの人から聞いて知った有松さんがTwitterで「マジっすか」と驚いたという。

有松さんがどんな人かわからないので、もし、直接連絡を取って取材して、小説にするのを断られると困るので、無断で題材にしてしまったのだが、その知り合いの人によって、すぐに有松さんにも知られてしまったと。

その有松さんは、科学の雑誌に伊予原さんの書いた「オオルリ流星群」の書評を書いてくれているという。

 

質疑応答コーナー

山本周五郎のファンの人が、伊予原さんの本を読んでおもしろかったですと。伊予原さんは山本周五郎さんの本は読みますかと。

伊予原さんも山本周五郎さんを好きで何冊か読んでいるとのこと。

 

次の作品はもうありますか?との質問

今年の夏に短編集が出る。月まで三キロみたいな雰囲気の作品集だと。楽しみにしていて欲しいとのことでした。

 

講演会の最後には、現物の本を持ってきた人を対象にしたサイン会を急遽開いていました。

私はKindleで買った電子書籍だったので仕方なくあきらめました。

 

 

内容としては、科学的な難しい話は私がよくわからないので理解できていませんでしたが、聞いていて嫌な感じはしないし、楽しかったです。もっと、色々詳しくなりたいと思いました。

 

そして、言外に「あきらめないで書き続けてね」というメッセージをもらったような気がしました。

伊予原さんが綾辻行人さんに言われた言葉ですね。

 

やり続けるって大変なこと。

伊予原さんは、やりたいことができない研究者の状況にモチベーションが下がった時に小説のトリックを思いついた。

こんな話を聞くと、やっぱり人生って無駄なことはないのではないかと思ってしまうのでした。

色々と参考になった講演会でした。

 

科学的なことはネットで調べてもきっと私にはわからないので裏を取っていませんがすみません。もっと賢くなりたいです…。

有意義な時間でした。

 

 

 

 

武将たちと富士宮ーNHK大河ドラマの時代考証からー

文化講演会 演題 「武将たちと富士宮」―NHK大河ドラマ時代考証からー

講師 小和田哲男(おわだてつお)静岡大学名誉教授・文学博士

 

触りから

NHK大河ドラマ時代考証の仕事は竹中直人さんが出演した秀吉(原作・堺屋太一)が最初で、2020年の麒麟がくるで7作目でした。

原作があるのとないのとでも時代考証の仕事のやりやすさというのが違っていて、

原作があって原作者が生きてる・原作があって原作者が亡くなってる・原作なし

というパターンがあるが、一番やりやすいのは原作なしの場合です。

2006年の「功名が辻」という山内一豊と千代の物語のときには苦労しました。

山内一豊という名前も2006年からは「やまうちかずとよ」と読みますね。やまのうちじゃなくなりましたね。

この話のときに馬を買う有名な場面が出てくるのですが、NHKと衝突しましたね。

この話は原作者が司馬遼太郎さんで、このときはもうお亡くなりになっていたのですね。

原作では安土の馬市「天正4年(1576年)」ということになっているが、この頃には一豊出世してまして年収が2000万超えてるんですね。

一頭約十両(一両が十万円なので百万円)もする馬を買ったんですが、年収2000万あって100万の馬が買えないわけないのです。

この年よりも4・5年前だったら400万くらいの年収だったので、馬を買ったのは多分、岐阜か長浜なんですね。

そしてこのときにまたセリフで揉めたんですが、原作者が歴史に詳しくなくて、NHKに頼まれて歴史ものの脚本を初めて書いた場合とかだと登場人物が現代的な言葉遣いになってしまっているので困るんです。

一豊のセリフで、「わしは絶対家族を守る」というセリフがあったのですが、当時、絶対という言葉と家族という言葉がなかったので、当時風に言うと、

「わしはかならずや妻や子供を守る」となるんですね。こんな具合に時代考証というのは衝突することもあるんですよ。

 

また「天地人」の直江兼続のときには、越後は米どころじゃ、酒どころじゃ、じゃんじゃん飲め」というセリフがあったのですが、新潟でお酒が有名になったのは戦後のことなんですね。〆張鶴(しめはりつる)とか有名なお酒が私は好きですが。

 

他には「これでそなたも殿の眼鏡にかのうたな」とうセリフがあったのですが、当時、眼鏡なんてかけてる人は3・4人しかいなかった。おかしいですよね(笑)

「鳩が豆鉄砲食らったような…」という表現も、この頃鉄砲なんか持ってる人はほとんどいなかった。これもおかしいですよね(笑)

とかく演出家というのはオーバーにしたがるもので、時代考証の仕事でぶつかることが多いです。

2011年の「江~姫たちの戦国~」のときのことです。信長という人はどこでも平気で火をつけていく武将だったのですが、小谷城の攻防のときには信長が火をつけたという記述も焼けた痕跡もどこにもないんです。小谷城は落城時に焼けてないんですよ。

なのに演出家が「落城するとき燃えてないと視聴者は落城しているとわかってくれないから」と言って、ちょっとだけでいいから火をつけさせてくださいと頼んでくるんですよ。ダメだと言っていたんですがあまりにしつこく言ってくるので、仕方がないから「ちょっとだけですよ」と許可したんですけれど。かなり派手に燃えていましたね(笑)

 

本題

今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ですね。私は時代考証はやってないんですが、来年の「どうする家康」は担当しています。

鎌倉殿の13人は伊豆の国市韮山町)が舞台になっていますね。静岡というのは大河ドラマの聖地なんですよ。静岡と愛知に関係のある武将が多いからです。

いろんなところから大河ドラマへの陳情が来ているんですよ。例えば長野県上田市。署名活動を行っている。熊本県でも「清正公を主人公に」と署名活動をしている。

今まで鎌倉幕府を開いたと言えば源頼朝でしたが、頼朝のみで幕府を開いたわけではないですよね。

頼朝というのは、14歳で伊豆に流されたんですよ。流刑地と言えば、常陸・阿波・隠岐というところがありました。

以仁王の令旨を受け取って頼朝は挙兵したわけです。

山木兼高(やまきかねたか)の屋敷を攻め落とすんですが、三島の人は三島大社にお参りに行くだろうから、お祭りの最中に襲おうということで、三島大社の祭りの時を狙って襲撃に行くんですよ。

伊東祐親(いとうすけちか)は平家方についたのですが、真鶴岬から房総半島を目指すんです。その直後に富士川の戦いがあるんです。朝霧高原付近ですね。

甲斐源氏というと武田信義という人がいるんですが、この人の何代か後に信玄がいます。

一条忠弘という人が甲斐源氏を束ねて橘遠茂と戦ったんですよ。

その頃の富士川は今とは違う流れでして田子の浦の入海で鳥たちがびっくりして一斉に飛び立つんですよ。ちなみに昔はキセルをやる人のことを「薩摩の守」と呼んだものです。

富士川の戦いというのは、戦いなき戦いと言われています。

 

頼朝が鎌倉入りしてから、富士の巻き狩りをやるわけです。巻き狩りと言えば曽我の兄弟の仇討ちが有名ですね。昔は講談でも仇討ちが大人気でしたが、今はないですね。

巻き狩りというのは軍事訓練で、鹿や猪を狩るんですね。

鎌倉幕府と言えば中学校の教科書の執筆編集も私やるんですが、皆さん、いい国作ろう鎌倉幕府と覚えたのではないですか。今は違うんですよ、いい箱作ろう鎌倉幕府なんですよ。1185年説が今は有力なんです。

頼朝と言えば、兄弟には義経源範頼がいるわけですが、幕府というのは将軍の幕営(いるところ)なんですね。

今年の大河ドラマがどの説でいくのか皆さん楽しみにしてくださいね。

 

富士の巻き狩りは、個人の訓練に対しての集団での訓練を指します。

曽我十郎五郎兄弟。この兄弟はなぜか兄が十郎で弟が五郎ですね。

曽我兄弟が討ち取ったのは親の仇で工藤祐経(くどうすけつね)ですね。曽我兄弟の親というのは伊東祐親(いとうすけちか)の息子の河津祐康(かわづすけやす)です。

狩宿の下馬桜は上井出のすぐ横ですね。白糸の滝のすぐ近く。

この時、頼朝が襲われて亡くなったという誤報が鎌倉の政子の元に届きます。

政子の側にいた頼朝の弟の範頼が「兄が討たれても私がいるから大丈夫だと言った」という。それが原因で政子に疎んじられた。

また、富士宮市下条には地頭南条氏の館がありました。土塀が残っている。土塁と堀に囲まれた館。妙蓮寺に残っている。武士たちの館が多かった。

 

「どうする家康」

家康は生まれは岡崎。6~8歳の時は尾張で信秀の人質。9歳からは今川の人質。

1560年の桶狭間の戦い、このときはたまたま家康は大高城の留守を守ることを命じられていたので助かったのですが、留守を守っていなかったら、歴史は変わっていたかもしれないですね。

桶狭間の戦いでは、今川軍は昼食休憩のときに狙われています。

その後、家康は三河で自立。今川氏真(義元の息子)をけしかけたがダメだった。

水野信元(みずののぶもと)が寝返るのですが、この人はお題の方の兄で信長の家来。

家康は3歳で母と離れ離れになった。家康が武田軍と手を結んで富士川を南下して内房に来るのですが、この辺りは大河に出てくるかもしれませんね。

 

武田と手を結ぶが対立する。三方ヶ原の戦いで家康は信玄に負ける。この時、徳川方の記述には大井川・遠江は家康、駿河は信玄となっているが、武田側の記述では大井川という記述はない。

天正三年の長篠の戦については、小和田先生は「長篠・設楽原の戦い」と言っている。

信長との同盟は天正十年に結ぶ。

信長による甲斐の武田攻めで富士宮も出てくる。信玄は天正元年に亡くなる。勝頼という人は本来、家督を継げるような人ではなかった。武田義信(長男・義元の娘)が亡くなり、次男はもともと盲目で、三男も亡くなっている。そういうわけで、諏訪家に出ていた勝頼に家督相続の話がめぐってきた。

 

甲相駿(こうそうすん)三国同盟富士市の善徳寺で信玄、氏康、義元が会ったと言われているが実際には3人はそこで会ってはいない。

信玄は、駿河の国が喉から手が出るほど欲しい。海を使った交易や、川を使った舟運がしたかった。甲斐の金山(下部)は金が枯渇し始めていたが、駿河にはまだたくさん金山があるので。

信玄が亡くなったのは信長や家康にとってはチャンス。天正十年三月。天目山の戦い。実際には天目山では戦いはなくて、天目山麓の田野というところで戦いがあった。

小和田先生は、「天目山麓・田野の戦い」と呼んでいる。

家康が甲斐に攻め込む。麒麟が来るでは、コロナの関係で武田攻めが省略されてしまい、小さい扱いになってしまったが、小和田先生はもっと取り上げたかった。

 

信長の長男・信忠が恵林寺を攻める。六角氏残党が匿われていた。快川紹喜(かいせんじょうき)という国司の人が「寺は治外法権だ。」と言って六角氏を出さなかった。

寺に150人いたというお坊さんたちを火をかけて焼いてしまった。

この時に快川紹喜という人が言った言葉が「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉。

快川紹喜は美濃の出身。このことについて光秀は不敬にあたると思っていた。

戦いが終わった後の首実検というのは手を合わせて拝むのが流儀であるが、細川忠興の記述によると、信長は勝頼の首を蹴飛ばしたとある。光秀は信長様が狂われたと思ったかもしれない。

信長の凱旋旅行に近衛前久(このえさきひさ)という公家が一緒についてきていた。

近衛は謙信とも仲が良く、行軍に参加したりしていた。

その太政大臣にむかって信長は「わぼれなんど、木曽路をのぼらせん」(おのれなど木曽路を登らせない)と言い放った。信長は帰り際に富士山を見て帰りたいとわがままを言った。

信長については「信長公記(しんちょうこうき)」が一番詳しく書いてあるが、家臣の太田牛一という人が書いているので忖度があるので注意。信長が負けた戦いについては記述がなかったりする。

同じことで、吾妻鏡も忖度があるので注意。

 

史料は騙されやすいので注意が必要。吾妻鏡は北条家に都合の悪いことは一切書いていない。

天正十年の四月十二日。信長は狂ったように富士の原野を走り回った。これは太田牛一の感想。

信長は酒が強くない。

その際、信長は、大宮の浅間大社、上井出、白糸の滝などを見て回ったらしい。

家康が茶屋を立てていて、家康の接待を受けながら信長が通った。

直後に本能寺の変が起きる。

本能寺の変の後、信長の首は見つからなかった。

10月に秀吉が葬儀をしたが、首がないので木造の首をふたつ作って、ひとつは燃やし、もうひとつは本能寺にある。

実際には西山本門寺富士宮)に首が運ばれたというが、これについては、結構信憑性が高いかなと小和田先生は思っている。

 

家康にとっては富士山というと村山修験(むらやましゅげん)と関りがある。今川義元村山修験とつながりがあった。

戦国時代は、忍者が活躍した時代。忍び、乱波(らっぱ)、透波(すっぱ)など。

村山の山伏は修験者(しゅげんじゃ)。家康は子供のころから忍者たちの行動を見ていた。

家康は富士山の修験者たちを高く買っていたのではないか。

 

家康は大坂方に対する最後通告で自分が隠居し、将軍を息子に譲った。静岡市に隠居城である駿府城を作った。

家康が駿府城を静岡に作ったのには五つの理由があると言われている。

ひとつには、幼年の時にいたから。その頃は比較的、恵まれた人質時代であった。

ひとつには、冬あたたかくしてちょうどいい。

安倍川から見ると、富士山と駿府城が並ぶように建てられている。

 

 

ほぼほぼ、こんな感じの内容でした。

書きとった人(わたし)の知識が足りないせいで意味がわかりにくい箇所がありましてすみません。

お話を聞きながら高速で走り書きのメモを取りました。今になって意味がよくわからない、思い出せないところもあります。

 

会場では、ときおり笑いが起きていました。小谷城のくだりで「ちょっとだけ火をつけさせてください」とか、その辺りは笑いが起きていました。(笑)としてあるところはそんな感じです。

 

個人的には、曽我兄弟についてのお話をもう少し聞きたかったかなと思うのですが、非常におもしろくて有意義な時間になったと思います。

小和田先生の言い回しを思い出しながら文章を構成しています。

史実と違う箇所がありましたら、書きとった人(わたし)のミスです。ごめんなさい。

小和田先生、ありがとうございました。

荷葉~kayou~

カリエトラコのホームページ、「荷葉(かよう)」です。

アドレスは下記の通り。

karietorako3.wixsite.com

 

トップページをリニューアルしてみました。わかりやすくなったかな。

今までのよりは見やすくなったと思います。

 

最近、更新も告知もまったくしていなかったので反省。

ここのブログでさえも書いていなかったからね。

イラストレーターはもっと触りたいのですが、なかなか出来ずにいます。時間はあるのですが…。

 

暑さもだいぶ和らいできまして朝晩は少し過ごしやすくなってきていますね。

ときどきは寒いくらいのときもありますからね。体調管理には気をつけたいところです。

 

カリエトラコとしては新しいコンテンツはないのですが、文章書き(素人です)としてはいろいろ試行錯誤の最中です。

形になってから、そして表に出てからの告知ですもんね。それまでは地道にやるしかない。

やり続けるのも力なのでしょうね。毎日書けるわけでもないから困るのよ…。進む時には進むけれど、後で添削したくなるし…。

 

生活の糧という意味では何ひとつ機能していませんが諦めずにやっていこう。

スタンプがもう少し売れたらな…。しくしく。

あれもそれもこれも何もかも、告知が足りないのかもしれません。

まずは出来ることからやってみようか。

 

諦めるのは早すぎる。

そして、地道に書くということは一番の要。描くでも同じことよね。

ぼーっとしているように見えてもいろいろ考えています。建設的に前向きに見直しは必要だな。

 

無駄な時間がないことを祈りたい。何も手につかずに途方に暮れることもあるので。

そういう時間がきちんと積み重ねになっていきますように。

 

 

はや一年。

昨年の投稿からはや一年?そんなに経ってますか。早いわ。

今日はお寺さんのお経廻りで御本尊様を頂いたのでなんだか嬉しくて投稿するのです。

iPadからの投稿です。Facebookも同じく。

 

私は元来少し風変わりな所があり、人と仲良くやるのが上手くありません。

喧嘩になったり、言いたい事も言えないほど自分が萎縮してしまったり、何かとうまくいかない人生でした。

私にとっての真の友は本や音楽だったのでは無いかと思うのです。そんなことを言うと数少ない友人には申し訳ないのですが。

 

嫌なところもたくさん見てきたし、嫌なこともいっぱいされてきたし。先日退職した職場もいろいろありましたし。

でも、それでも私は人と人との繋がりの中でいろんな恩恵を受けているのだと思うのでした。

会話の中で何か心が温まる様なエッセンスを感じ取ったり、励まされたりするのです。これは一人きりでは無理なことです。

立場が違えばお節介とも取れる内容ではあるのですが、今日の私は元気付けられた。

 

ほんと、1人では無理な事だから。1人がある程度好きな自分ではありますけれど。

自由で楽ではあるけれどやはり寂しい。

 

甘えるのも下手な自分です。知らないうちに甘えていることは山ほどあると思うのですが、意識して甘えるのは下手なのです。

突破口が見つからないまま、イライラする毎日でしたが。

 

御本尊様のおかげでしょうか。会話のおかげでしょうか。

なんとなく安定感が増した気がします。

 

誰でも人はいろんなものを抱えているのだろう。

自分に何か出来るとしたら。役に立てるとしたら。

 

自分に出来ることを頑張ろう。そう思える1日でした。

正解なんてあるのか?

人生に正解なんてあるのだろうか。

それがよくわからないからいつも悩むのではないか。

 

欲しいものがある。あるけれどなかなか手に入らない。入らないからツンなのかと思いきやときおりデレな顔も見せる。タチが悪い。

そんなこんなで沼から抜けだせないでいる毎日。

 

きっかけは覚えている。しっかりと覚えている。

しかし、沼からの脱出対策の役には立ちそうもない。なぜならば自覚した頃にはもうどっぷり浸かっていたからだ。今更きっかけ云々してもまったくもって意味がないのだ。

 

だからといって過去を振り返らないわけにもいかない。何かヒントがあるかもしれないからだ。

そう思って思い出しているときにいらない過去までがよみがえってくる。

思い出してもなにも楽しくない思い出も結構あるのでちょっと嫌だ。

 

気分転換に何かしようとするが一度思い出したことはなかなか忘れさせてくれないしつこさがある。そして疑念は膨らむばかり。こんな感じで沼に浸かっている毎日です。

 

しかし、この沼、場合によってはものすごく楽しいから厄介だ。

嫌なこともあるのに基本、この沼は楽しく妄想させてくれる。妄想は心のオアシスである。考えているだけで微笑んでしまったりもする。

 

それくらいの魅力はあるのだ。確実に魅力的ではあるのだ。

何の沼にハマったのかは言わない。というか、うかうかと口には出せない。

そんなこんなで何の進展もなく、日々は懊悩しながら進んでいく。

 

沼。なんだか恐ろしいような、一度落ちたら自力では這い上がれない感じがする沼。

まさしく自力では這い上がれなくなっている沼。

だからこそ沼の生活は楽しくも恐ろしい。

この沼を。

私はもっと愛したい。

 

どうせ抜けられないのならいっそのこともっと愛してしまえばいいのだ。

そして周りの人には狂人と呼ばれるだろう。

それでいいのだ。だってすでにして沼の住人なのだ。もう手遅れなのだ。だから沼なのだ。

 

この沼ライフ。

もっともっと極めていこう。

力の限り、精一杯。

私にもできる精一杯の努力。

愛する沼ライフ。

 

そんなわけで対策を練りたかったのに、なぜかまた沼を愛することで結論が出てしまった。

さすが沼。やっぱり沼。愛する沼。

沼の真骨頂を見た。ような気がした。